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2018-10-16

その10-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

■これからしばらく「ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは」という本を訳してみたいと思います。
表紙は下記の写真となります。(翻訳の許可は原著者からとっています。)

180913てのひら

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つまり、覚りを得た者とは、すべてを知る者であり、覚醒した者であり、祝福を得た者を意味し、ブッダの真の特徴を示していました。いずれにしても、ウパカに対して話したことは、ブッダが解脱したとを初めて世に知らせる内容でした。こうする前にすでにブッダが予想したとおり、説法しても信ぜず、代わりに舌を突き出され、更に大いに笑いものになったのでした。
 この出来事は、人々に説く説法の方法を、もう一度ブッダに思い巡らせたのかもしれません。この出来事こそ、ブッダが人々に最高の教えを理解させるには、何をいかに説法すべきか、思考を巡らし始める契機となりました。ブッダの説法プランは、森から出てきた男が、他の人々も不死の甘露(アムリタ)の池に行けるように地図を書くようになったきっかけのようなものでした。つまり、ブッダの説法のすべては、人々が涅槃、あるいはブッダ自身の覚りを知る助けるになる道程の地図なのです。少し異なるのは、説法が人生の地図であることです。このよく練られた最初の説法行為は、後に初転法輪と呼ばれ、初めて仏教の教義を人々に説いた出来事になります。出家僧のウパカと別れた後、ブッダは、かっての修行仲間の五比丘に会う前に、説法についてよく考えて説くことを練り、周到に準備したに違いありません。解脱する条件を知ることは、不死の甘露(アムリタ)の池がどこにあるか知ることと同じです。他の人がそれについて知るように説くには、まず、広大な周辺について話す必要があります。それから、少しづつ、狭めていくのです。もし、スワンモック寺(プッタートとい偉大なタイの僧が瞑想修行のために開いたお寺)に行くのでしたら、まず、南の方角に行かねばなりません、スラタニー県に行き、チャイヤー郡まで行き、チャイヤーから東の道路に沿って行きますと、スワンモック寺が右手に見えますと、人に説明するようにです。あるいは、ある男が、不死の甘露(アムリタ)の池は森の東の方向です、ですから西や北や南の方向に言ってはいけません、何故なら、方角を間違うと、後で引き返したとしてもとにかく時間の無駄になりますと、人に説明するのと同じです。
従って、初転法輪の説法では、四聖諦の話題に入る前に、次のことを注意します。

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2018-10-14

その9-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

■これからしばらく「ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは」という本を訳してみたいと思います。
表紙は下記の写真となります。(翻訳の許可は原著者からとっています。)

180913てのひら

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-出家僧よ、あなたの肌はみずみずしく、身体は白く明るく澄んでいる。どなたの流派に属しているのか。どなたがあなたの師なのか、どなたの名高い教えに接しているのか。

ブッダは、彼の人に求められるまま正直に、真実に即して答えました。

-私は、自ら覚った者であり、すべての欲望(煩悩)を征服した者である。自分自身を十分に知ったものであり、知って把握した者である。多くの俗世間の事柄に関わろうとしないつもりだ。私は、欲望(煩悩)を解脱し、自分自身の死生輪廻のカルマを断った。このようであるから、私の師である人を名指すことはできない。世に私のような人はおらず、私と比較するような人はおらず、阿羅漢(最高の悟りを得た人)となった。私以上の師はなく、私一人が真のブッダであり、欲望(煩悩)の炎を消した者である。私の教えを広めるためにヴァーラーナシーに赴こうとしている。不死の教えを鳴り響かせんとしている。

出家僧のウパカは、まったく尊敬の念を示さずにブッダの言葉を聞き、次のように述べました。

-先輩よ、あなたは、最終的に解脱した勝利者でないのに、実にあたかも大きな事を言っているのじゃあありませんか?

覚っているブッダは、真実を語っていると答えました。

-そうでしょうね、先輩。師なくして、自ら無上を知り得た独覚なのですね。素晴らしすぎますよ。

出家僧のウパカは、嘲る口調で述べ、ちょっと舌を出し、頭を揺らして避けるように去っていきました。おおぼらを吹くと思いながらです。
実際のところ、ブッダは、真実以上のことは何も言っていませんでした。独覚とは、師なくして自らの力で覚った者の意味です。

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2018-10-13

その8-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

■これからしばらく「ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは」という本を訳してみたいと思います。
表紙は下記の写真となります。(翻訳の許可は原著者からとっています。)

180913てのひら

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そのときは、自然の道理だけがありました。つまり、そこに「在る」という、言葉に出来ない在るがままの状態に対する認識だけがあったのです。まだ、涅槃という言葉が、生じていなかったかもしれない可能性がありました。そのとき、ブッダは、一人で解脱の無上の喜びを味わっていました。何故なら、誰かにこの教えを伝えようとは思っていませんでした。ガヤー地区の菩提樹の日陰に下で覚った後、ブッダは、溢れんばかりの心の十分な自由の状態を味合うために49日過ごしました。ブッダは、後に、この期間を解脱の無上の喜びを噛みしめた期間と呼んでいます。このとき、ブッダは、瞑想に入って無上の状態が非常に繊細で微妙であるのを観察し、欲望(煩悩)に覆われた普通の人が、あるがままに見ることは、尋常の能力を超えるほど、あまりに難しいと考え、我々が全身「虎」として呪われた人であることを、他の人は信じないだろうという配慮から、教えを説かないほうがいいという考えが浮かびました。しかし、何度も考えたあとで、様々な色の花があるように、人々には様々な知性のレベルがあると思い直しました。小さい頃から目にホコリが入っておぼろにしか見えない人でも、ブッダの無数の慈悲によって開眼するようになるかもしれないと。そうして、教えを説くことにしたのです。
洞察により、ブッダの師の2人は死去してしまったこと知り、覚りを開いた菩提樹から鹿野苑に向かう途中に、かつて一緒に苦行した5人の出家修行者のことを思いつきました。ブッダは、ウパカと名乗る一人のアージーヴァカ派の出家僧を通り過ぎました。ウパカは、非常に明るく澄んだ顔つきした修行者が通り過ぎるのを見ました。その威厳を備えた様子は、あまたの修行者と異なり、静謐で品位がありました。どんな人か知りたくなり、出家僧のウパカは、戻ってその若い出家僧に尋ねたのでした。
出家僧よ、あなたの肌はみずみずしく、身体は白く明るく澄んでいる。


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2018-09-29

その7-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

■これからしばらく「ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは」という本を訳してみたいと思います。
表紙は下記の写真となります。(翻訳の許可は原著者からとっています。)

180913てのひら

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しかし、人生の真の目的は何か、誰も本当に知らなかったのです。シッダールタ青年は、覚りを探求する集団に6年間、参加しました。命がほとんど危険になるまで、その時代にあった様々な修行方法を試行錯誤しました。その時代のインド社会で起こっていることは、森に入った男が森からの出口を見つけられないような状態でした。ですから、ブッダの覚りは、森に入った男が偶然、不死の甘露(アムリタ)の池に出会ったような状態、あるいは、本当のところ、この「虎」は「虎」でなく、普通の善良な人でああるという真理を発見したことでした。
ブッダの覚りとは、彼が自然の最高の真理を発見したことを意味します。宇宙の最後の境界を発見したようなものです。さらに北に行くことができない極北です。ブッダはこの状態を涅槃と呼びました。そこは、苦が完全に尽きる唯一の場所で、「虎」から人に戻れ、人生の牢獄から出られ、完全な心の自由が得られるところです。すべての人間はいつも新たに多くの問題に直面していますが、ここは問題が尽きることが直ちにわかるところです。
涅槃の状態あるいは最上の覚りとは、すでに元々人の心にある状態です。ブッダが生まれようと生まれまいが、いずれにしても、涅槃は元々あり、ずっとあり続けるものです。ただ、森の中のアムリタの池のように、以前、誰も見ていなかったし、発見したことがありませんでした。ブッダが誰も発見したことがないものに出会ったのは、素晴らしいことでした。ブッダの覚りは、他の思想家と異なる新しい思想のカテゴリーとして創ったものではないことを、知識ある人は理解すべきです。涅槃の状態に入るのは、まったく思考することと関係ありません。ブッダが思考を用いたのは、その後であり、教えを説き始めた後でした。



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2018-09-28

その6-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

180913てのひら

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第2章 何故、原因の前に結果が来るのか

前の章では、私は、ブッダが人間に善いニュースをもたらした涅槃について、明確なイメージで理解できるように話しました。すなわち、私達は本当は「虎」ではないのに、仙人が「虎」に変えてしまったため、人生の目的が、人に戻る道を探し求めること、あるいは、人生の牢獄から出ることになったということです。
この章では、目的(結果)と方法(道程)を特に取り上げ、お話しします。ブッダの覚りは、彼が覚りのプロセス(道程)を会得する前に、覚りの結果を会得したことに特徴があります。このことは、知識ある人は誰でも、仏教の本当の核心を見るために、明白に理解しなければならない重要点です。
つまり、この涅槃というのは、ある男性がふいに偶然、森に入って、不死の甘露(アムリタ)の池を発見してしまい、思わず飲んで不死の命を得てしまったという風な、明確なイメージで受け取るほうがいいでしょう。男は、このアムリタの水のことを知ったことで、人々にもこの水は大きな益があると考えました。そこで、道なき道を跛行して、地図を作成し、アムリタの池に行く道を迅速に明らかにしようと探求します。森から出て、彼は、このアムリタの水のことを他の人々に話します。行きたい人々に地図を渡し、道を説きます。
ブッダが覚る前は、人間の社会は暗黒に満ちていて、事の道理や人生の目的、真理とは何か、本当に苦が焼尽するとは何か、そのためにはどうしたらいいかを、誰も知りませんでした。インドのその時代に生まれたブッダは、回り道をしながらも真理を追求しました。あるときは淫欲にふけり、あるときは自分をいじめ抜き、あるときは瞑想の平安の中で考察をしたりして。

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タイの社会・文化をタイ字新聞やタイ語の記事を通して理解しおうとするブログです。日本語で伝えるタイの情報にはどうしてもバイアスがかかってしまう。タイの新聞にはタイの新聞の「味」があります。おもしろおかしく紹介する風潮とは一線を画してタイ語の記事のおもしろさを伝えられればと思っています。

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